遠州屋小吉

『−クロスコート−』

「電車代はちゃんと持った?」
玄関先でスニーカーを履く背中へ、後ろから確認するように声がかかる。
「はい」
と、靴ひもを結び終えると、彼は向き直って、生真面目な表情(かお)で母親を見上げた。
「遅くなるようなら電話するのよ? お父さんに迎えに行ってもらうから」
つい同じことばかり繰り返してしまうのは、息子がこれから隣の市までひとりで出かけるためだ。
年齢の割にしっかりして見えても、まだ小学生である。何度も行ったことのある場所だからひとりで行けると本人が言うので、夫は許したが、やはり行かせるとなると心配の方が先に立つ。
息子は返事をする代わりに、こくりとひとつ頷いた。そして手を延ばしてテニスバッグを取り上げると、肩へ掛ける。
「じゃあお母さん、行ってきます」
きちんと挨拶をする様子は、学校へ行く時の顔と同じようにも見えるのだが――
(…………この一週間、ずっと楽しみにしていたものね)
「楽しんでらっしゃい、国光。気をつけてね」
にこりと笑顔で、彼女は息子を送り出した。



「国光は出かけたのか?」
「あら、お義(と)父(う)さん」
リビングへ戻ると、義父の国(くに)一(かず)がTV画面へリモコンを向けながら、ソファに陣取っていた。
玄関でのやり取りが聞こえたらしい。
「――ええ。国光なら朝里(あさり)総合運動公園までテニスのJrの大会を観に。今日観に行くって、昨日の夕飯の時に国光が話してたじゃありませんか。何でも関東圏でトップクラスの子たちも出場するから楽しみだって」
「…………そういえば、そんな話もしとったな」
嫁の彩菜の指摘に、国一は記憶をまさぐるような表情を浮かべた。およそ洋服よりも鎧(よろい)兜(かぶと)や甲冑(かっちゅう)の方がしっくりと似合いそうな、厳格そのものといった感じの古色蒼然としたじいさんだ。
「それで国光は試合に出るのか?」
「いいえ。今日は観戦するだけですって。テニスクラブでコーチから大会の話を聞いた時には、既にエントリーの締め切りは終わっていたらしくて」
「なんじゃ、出んのか」
と言う、国一に、彩菜は小さく笑うと、
「お義父さん、お茶入れましょうか?」
「うむ。もらおう」
彩菜は、はい、と台所へ向かう。
「国光は近頃て(・)に(・)す(・)ばかりだな」
声に思わず不満が滲(にじ)んでしまうのは、孫が自分の薦(すす)める柔道には一向に興味を示してくれないせいだ。
国一は72歳となった今も、週に2日、警視庁の道場へ出向いて現役の警察官たちへ柔道の指導に当っている。その指導ぶりは、剣道の某教官とともに、マル暴の4課もビビる鬼教官として恐れられているとかいないとか。
「試合に出んのなら、国光もわざわざ観に行くこともないだろうに……」
テニスに孫を取られっぱなしの国一は、いたずらにリモコンでチャンネルを変えながらぼやいている。
そんな義父の声が聞こえたのか、台所で彩菜が微笑(わら)っている。





都下でもその敷地面積の広さと設備の充実において定評のある朝里(あさり)総合運動公園は、スポーツ好きの市民が気軽に利用できる公共施設として人気が高く、週末ともなると善男善女が思い思いに汗を流しにやってくる。
施設の中にはもちろんテニスコートもある。コート数は8面。事前に予約をすればナイター利用も可能なので、利用者には評判がいいようだ。
日曜日のこの日は、コートを貸し切って、小学生のテニス大会が行われた。
青空の下、子どもたちの元気な歓声と父兄の声援とで、テニスコートは熱気に沸いた。
それから数時間――
大会も終わり、すっかり人気がなくなった昼下がりのテニスコートには、少年が二人居残っていた。二人とも小学生の5、6年生くらいだろうか。ひとりは、つばを後ろ向きに、キャップを被っている。
彼らは自分たちだけになると、テニスバッグからラケットを取り出した。
コン、とお互いのラケットを軽く当てあい、コートへ入る。どうやらまたテニスを始めるようだ。
キャップの少年の方がサーブ権を取った。蒼穹へ向かって黄色いテニスボールを放り投げ、握ったラケットを鋭く振り下ろす。
「は!」
二人は、ギャラリーがいないのがもったいないような白熱したラリーを始めた。大人顔負けといって言い上手さだ。
「クソッ! またネットか!」
キャップ少年はボールがネットに当って落ちると、いまいましそうに唸った。
同じ失敗をコレで5度目だ。どうしてもボールが上手く飛ばない。
「だから、そう力任せに打ったってダメだよ真田。さっき言ったろ?」
そんな彼へ向かって、ネット越しに声が飛ぶ。声は柔らかいが、その口調は厳しい。
真田と呼ばれた彼は、被ったキャップの下から利(き)かん気の強そうな眸(め)を上げると、相手コートへきつい視線を投げた。
「幸村」
だが幸村と目が合うと、ぐっと押し黙る。どうしてだかこういう時の親友には、逆らえないモノがある。
肩まで届きそうな、長めの柔らかくくせのある髪と、額のヘアバンド。繊細に整った中性的な顔立ち。
幸村精市。同じテニスクラブの仲間でありライバルで、そして今のところ、真田がどうあっても勝てない、ただひとりの強敵である。
今日だってそうだ。
お互いにトーナメントを勝ち進んで、最後のシングル戦、6−4で決勝を制したのはやはり幸村だった。
4−4で並ぶまでは取ったり取られたりのシーソーゲームだったのだが、並んだ後は一方的に2ゲーム取られてしまった。
真田は、ムチャクチャ悔しい。
「…………もう少し、やっていこうか?」
このコート、16時まで空いてるらしいよ。
大会が終わった後、そう誘った幸村に、真田は一も二もなく肯(うなず)いた。望むところだ。
今度は勝つ! と息巻く真田に、幸村は微(わ)笑(ら)った。
どうやらテニスをやり足らなかったのは、幸村も同じらしかった。
「ボールを叩くからネットに当るんだ。ラケットを滑らせて前へ出すんだよ、こんな感じで」
言いながら、幸村はラケットを振って見せる。
「そうしたら引っかからないよ」
「…………む」
真田は口をへの字にして、じっと幸村のホームを眺めている。ものすごくふてくされた顔だが、幸村に促されると、見よう見まねながら渋々ラケットを振った。
すると幸村は、違う、と首を横に振る。
「そうじゃなくて。こうだよ真田。手首は入れないで」
「さっきからやってる!」
「出来てないよ」
身もフタもないだめ出しに、真田はますますムキになってラケットを振り回す。
と、そんな時だった。コートの入口に、ふらりと人影が立った。
「?」
先に気付いたのは幸村だった。
「どうした?」
そちらへ首を巡らせた幸村に釣られるように、真田も彼の視線の先へ顔を向ける。
自分たちと同じくらいの背格好の少年が、当惑気味にコートを見回していた。テニスバッグを肩にかけているところを見ると、ここへテニスをしにきたようだが。
二人は顔を見合わせた。知らない顔だ。
二人と目が合うと、彼は少しためらうような素振りを見せた。そんな何気ない仕草が妙に大人びて見えるのは、きれいに整った甘さのない顔立ちのせいか、それとも眼鏡をかけているせいか。
「何か用かい?」
幸村が声を投げた。すると彼は、反対に訊き返してきた。
「今日ここで、Jrの大会があるはずなんだけど――」
「ああ、それなら」
と、横から真田が、彼の言葉に被(かぶ)せるように口を挟んだ。
「それなら、もう終わった」
「終わった?」
彼は微かに眼鏡の奥で目を見張った。確認するように自分の腕時計へ目を落として、それから腑に落ちかねるように首を傾げると、呟いた。
「13:30開始のはずだけど……?」
「13時?」
と、今度は幸村が聞きとがめた。
「大会の開始は11:30からだよ。13:30じゃなくて」
そこで一旦、言葉を切ると、いたずらっぽく付け足した。
「でもどのみち、1時前には全部終わってたけどね」
「え?」
「手ごたえのない奴らばかりで、面白くもなんともなかったがな」
真田はふん、と鼻を鳴らして、傲(ごう)岸(がん)に言い放った。
実は大会の蓋を開けてみれば、二人と他の参加者たちとの実力差がありすぎて、彼らの一方的なゲーム運びで試合が進むものだから、結果的に、主催者が予定した終了時間よりもかなり早く終わってしまったのだった。
「そうか。もう終わってたのか……残念だな」
彼は硬い表情(かお)で肩を落とした。その顔は、残念だと言うほどガッカリしているようにも見えないのだが、その分、肩に落胆がはっきりと出ていた。
「今日の大会、君も出るつもりだったのかい?」
幸村が尋ねると、彼は小さく首を振った。
「いや、俺は今日は観にきただけだ」
「ふうん。そう」
幸村はこの突如現れた闖入者(ちんにゅうしゃ)を上から下まで一瞥(いちべつ)すると、何を思ったかニコリとした。
「じゃあよかったら、今から俺たちと軽く打っていかないかい?」
「幸村?」
「君だってこのまま帰るんじゃ、つまらないだろ?」
幸村の申し出は、眼鏡少年の意表をついたらしい。彼は幸村を見、それから真田の方を見遣ると、もう一度、幸村を見直した。
「どうだい?」
幸村は、重ねて誘った。
内心、どうしようかと迷っているらしい彼の視線が、ふと、ベンチの方へ流れる。
そこには彼ら二人のテニスバッグやタオルなどが散らかっていたが、それらに混じって、金メッキ製の小さなカップが見えている。
優勝カップだ。
相手の視線に気付いた真田が、にやりとした。
「先に言っておくが、今日の大会で勝ったのは俺たちだ。手合わせするのは構わないが、俺は容赦しない。やるんだったらそのつもりで挑んでこい!」
「――――わかった」
自信満々で挑発する真田に対し、静かなほど落ち着いた声で彼は受けてたった。その様子を見た幸村は、へえ、と口の中で呟いた。
(勝つ自信、あるみたいだね)
こう云う相手は嫌いじゃない。形のいい口元が、面白そうにほころぶ。
反対に、ムッとしたのは真田である。相手の取り澄ました態度に、カチンときたのだ。
「だったらまずは俺が相手だ! いいな幸村!」
「構わないよ」
どうせ言い出したらきかないのが真田だ。二つ返事で緒戦(しょせん)を譲って、それからふと気がついたように、
「名前をまだ言ってなかったな。俺は幸村。で、彼は真田」
親指で指し示した。
「真田弦一郎だ」
満面に負けん気をみなぎらせて、真田がきっぱりと名乗る。
「――手塚だ」
肩からテニスバッグを下ろしながら、彼は短く名乗った。


「手塚、国光」


              (終わり)
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