「君、この期に及んで転校するとは、一体何の冗談なんです!?」
――その瞬間、彼は珍しく、長い前髪の下で、その切れ長の瞳をぱちくりさせた。
昼休みは大抵、委員会やら生徒会関係の用事が入っていて、それらで潰れてしまうのがほとんどなのだが、この日は珍しく何も予定が入っていなかった。
そこで早々に教室で昼食をすませた柳生比呂士は、放送部の昼の放送を聞くともなく聞き流しながら校舎を出ると、テニス部の部室へと向かった。
朝、柳に頼まれた雑用を済ませてしまおうと思ったのだ。
『――部室の蛍光灯が1本切れてしまっている。手続きはこちらでしておくから取り替えておいてくれるか、柳生?』
部室の備品に関しては、部費でまかなうものもあれば、生徒会が管理しているものもある。ちなみに蛍光灯は後者だ。
柳は生徒会の役員でもあるので、この手の雑用は柳がケアをすることが多い。頼まれた柳生は、大したことでもないので二つ返事で引き受けた。
できるなら、この昼休み中に交換してしまいたい。本当は先に換えの蛍光灯を備品室へ取りに行ってそのまま部室で交換してしまいたかったのだが、何ワットの蛍光灯だったか、柳に確認するのを忘れたので、仕方ないから、まず部室へ切れた蛍光灯を外しに行くことにしたわけだ。
柳生は歩きながら、腕時計へ視線を落とした。昼休みはまだたっぷり30分以上残っている。
「急ぐ必要はないようですね」
テニスコートを通り過ぎると、部室棟が見えてくる。
昼休みの部室棟は、文化系の部室の方が断然賑やかだ。対して体育会系の方は人気もあまりなく静かだが、それでも無人の部室は少ないようだ。
男子テニス部の部室も中から明かりがもれていた。誰か居るらしい。
「失礼しますよ」
軽くノックをしてドアを開けると、部屋にいた数名が一斉に振り返った。
「あれ? 柳生、珍しいじゃん。昼休みに顔出すなんて」
折り畳みのパイプイスを裏返しにして、背もたれに両肘を突いていた丸井ブン太が、飲みかけのブリックパックから口を外して言った。
「ええまあちょっと、蛍光灯を取り替えようと思いまして」
「蛍光灯?」
と、ドーナツの最後の欠片(かけら)を口の中へ放り込んだジャッカル桑原が、おうむ返しに、柳生の視線を追って首を巡らせた。
「ああ本当だ。あそこの1本が切れてやがる。気付かなかったぜ」
「一番奥ですからね」
言いながら、柳生は壁際の隅に畳(たた)んであるパイプイスを取りに行く。脚立(きゃたつ)代わりに使おうと思ったからだが、数歩と行かないうちに、後輩に行く手を阻まれた。
「柳生センパイ!」
「何です、切原君」
柳生は、かじりかけのコロッケパン片手に自分に詰め寄ってきた後輩を静かに見下ろした。
興奮すると突っかかるような物言いになるのは赤也の悪いクセだ。そのせいで真田などにはしょっちゅう怒られている。
「なんで仁王センパイが転校すんすか!」
「――――は」
思わず、柳生は赤也の顔を見直した。
「何の冗談です?」
「だから赤也、お前の勘違いだって」
いなすように、脇からジャッカルが口を挟んだ。そーそー、と、ブン太もテキトーに同調する。
「柳生だってそんな話、聞いてないんだろい?」
「ええ、初耳です」
柳生はそのすっきりとした理知的な面(おもて)に、これ以上ない真面目な表情を浮かべてジャッカルとブン太の顔を見比べた。
「また仁王君のデタラメじゃないんですか」
他校生から“コート上の詐欺(ペテン)師”などと呼ばれてもいるらしい、彼のダブルスパートナーは、トリッキーなそのプレイスタイル同様、とにかく掴みどころがないとしかいいようのない男である。
先日も、女子が差し入れに調理実習で作ったサンドイッチを持ってきたとき、
『野菜サンドよりハムサンドのほうが好きじゃが、ハムよりタマゴサンドの方がいいの。じゃが野菜サンドの方がタマゴサンドより好きかのう』
などと言った挙句、結局ジャムサンドを選んで食べた男である。まともに取り合ってると、頭が痛くなってくる。
柳生は思わず、ひとつ息を吐いた。
「いいですか。県大会までもうひと月を切ってるんですよ、切原君。それに我々は受験も控えているンです。いくらなんでもこのタイミングで転校なんてするヒトはいません。君はきっとまた彼にからかわれたか、もしくは聞き間違えたかしたのでは――」
本当に、あることないこと喋っては、煙にまくばかりで。
「ほらみろ赤也。柳生だってこう言ってんじゃん」
「でも確かに俺、朝練の時聞いたんすよ! 仁王センパイが幸村ぶちょーに転校の手続きがあるから今日の部活は休むって話してるの!」
しかし赤也は言い張って聞かず、口を尖らせて聞き間違いじゃないと頑固に繰り返す。
「おい、コロッケが落ちるぞ赤也」
と、ジャッカルが注意するが、
「俺ちゃんと二人がしゃべってるの見てたんすから!」
嘘じゃないっすよ! と、真剣な顔で柳生に言い募る。
ここへ来て、3年生3人は、互いに顔を見合わせた。
「…………どう思う?」
「どうって……んなのわかんねーよ。第一俺、その現場見てねーし?」
ブン太は困ったように、柳生の方を見た。柳生は返事の代わりにもう一度ため息を吐くと、人差指でやや神経質にメガネのブリッジを押し上げた。
『――おんしは口より、指先の方がおしゃべりじゃの』
ブリッジを押し上げる仕草を、最初にクセだと指摘したのは仁王だった。
『? どういう意味です?』
『なに、言うたまんまじゃき』
(…………まったくあの人は何だってこう……)
いないときにまで、周りの人間を振り回す状況ばかり作るのか。
「本人に問いただせば済むことです」
「なに怒ってンだ、柳生」
「怒ってなどいません」
表情も変えずに柳生が否定する。恐い。思わず怯むジャッカルに、ブン太が声を出さずに、
「バーカ」
と、目顔でたしなめた。その一言が余計なんだっての。
昼休みの教室は、どの教室も扉も窓も開けっ放しで、生徒の出入りが激しい。
部室から仁王雅治のクラスである3−Bまで直行した柳生は、今しも教室から出てきた生徒に仁王を呼んでもらおうとして、
「ワシに用かの?」
出し抜けに、後ろからぽんと肩を叩かれた。
「!」
弾かれたように身体ごと振り返った柳生の目の前に、仁王が立っていた。相変らず緩く結んだネクタイにブレザー姿で、スラックスのポケットに片手を突っ込んでいる。
「ちょっと来たまえ!」
柳生は仁王の利き腕をわし掴むや、有無を言わさずに彼を廊下の隅へ引っ張った。
「ちょ、いったいどうし……」
他の生徒たちが振り返って、そんな二人を眺めている。
「君、この期に及んで転校するとは、一体何の冗談なんです!?」
柳生が詰め寄ると、仁王はきょとんとした。はっきり言って珍しい。そんな表情をすると、シャープに整った顔立ちが、ビックリするほど幼くなる。
一方、柳生は、メガネのせいで表情が見えない。
「転校? 誰が?」
「はぐらかさないでくださいませんか」
「いや、はぐらかすもなにも、おんしの言うとることがさっぱり……」
言い差して、仁王は柳生の顔を見遣ったが、何を思ったか小さく息を吐くと、ホールドアップをするように両手を上げて見せた。
「何のマネです」
柳生の声が冷たくなる。仁王は答えた。
「のう柳生、降参するからヒントくれ。さすがのワシもノーヒントじゃお手上げじゃき」
柳生は押し黙った。わずかに俯くと、人差指をメガネのブリッジの辺りへ持っていく。
それから、おもむろに口を開いた。
「――今朝の朝練の時に、幸村くんと話をしたそうですが」
「……なんじゃ、そのことか」
あからさまにガッカリした仁王に、柳生は眉間に青筋を走らせた。
「なんじゃとはなんです! それじゃあ転校するという話は本当だったんですか!? 大体なぜ私に先に――」
「ところで、なんでおんしがそのことを知っとるんじゃ?」
朝おらんかったじゃろ? と、仁王は柳生の追及などお構いなしに怪訝そうに問い返した。
「…………切原君が聞いていたンです」
答える柳生の声は、地を這うように低い。
「そーいやあいつ、おったっけな」
仁王はチラと目だけで天井を見上げると、ガシガシと髪をかき上げた。
「中途半端に聞き間違いやがって。あのな柳生、転校じゃのうて転居じゃ転居」
一瞬、柳生は何を言われたのかわからなかった。
「てん、きょ?」
「そ。転居。ワシんち、今日引越しするんじゃ」
「…………」
「手伝わんといかんきに、今日の部活はワシ、パス」
そう言った仁王は首の後ろへ手をやると、顔をしかめた。
「しっかしこれからのことを考えると目の前が真っ暗になりそうぜよ。なんせ今より通学距離が一気に40分以上も遠くなるき、朝練とかもうマジでたまらんぜよ」
仁王はげっそりしてぼやいている。
「…………転校しないんですか」
ややあって、柳生はぼんやりと繰り返す。
「せんよ」
短く否定する仁王は、普段どおりに素っ気ない。柳生は口を開きかけて、止めた。なんだかもう、バカバカしくなってきた。
そんな相棒の様子を見遣って、仁王は口の端で薄く笑う。
「ところでのう」
仁王は、不意に口調を変えた。唐突に柳生の肩へ腕を回す。
「おんしの新技あるじゃろ? アレを見てちょっと面白いことを思いついたんじゃ」
「LASER BEAMですか」
巻きついた腕を邪険に振りほどきながら聞き返す。仁王はにやりと笑った。
「ウチの3強も騙せる策(て)じゃ。まぁ聞きんしゃい」
「またつまらないことでも考え付いたんですか」
そのとき、5時限目の予鈴が鳴り出した。
「――残念ながら時間切れのようです」
と、柳生は特に残念でもなさそうな顔で一方的に話を断ち切った。では、と仁王をその場に置き去りに、踵(きびす)を返す。
(まったく……)
結局、疲れただけで昼休みが終わってしまった。言いようのない疲労感に、思わず肩が落ちる。
B組を通り越して自分の教室へ向かう柳生の両側を、同じように教室へ急ぐ生徒たちがバタバタと騒ぎながら右へ左へかけて行く。
「――柳生」
ふと、呼ばれた気がして、A組の手前で足を止める。
『蛍光灯は昼白色の40Wじゃ』
「え?」
肩越しに振り返ったその瞬間、ひらりと彼へ振られた手が、B組の中へ消えた、ようだった。
(終わり)